この記事は、ちょっと情報や写真が古いかもです。サボテン茶屋について色々調べ始めたら1年以上かかってしまったので。ということでサボテン茶屋に私が伺ったのは昨年の4月になります。
ということで神奈川県は鶴見にある覇王樹茶屋(サボテン茶屋)跡のパン屋さん(ESPLAN エスプランさん)に行ってきました!自宅から自転車でいける距離でしたので。
お店外観は↓のようなかんじ。「覇」の文字かっこいいっす!
ということなんですけども、まずは「覇王樹茶屋(サボテン茶屋)とは何ぞや?」という話の前に、そもそも「覇王樹とは何ぞや?」という話をしたいです。
実はサボテンは漢字で書くと、「仙人掌」とか「覇王樹」とか書くのですが、これらは両方とも中国語由来のようです。
「仙人掌」については、その字面の通りその(例えばウチワサボテンの)形が、仙人の掌のように見えるからと言われているようです。ちなみに、中国では球サボテンについては「仙人球」と呼ぶこともあるようです。かっこいい響きですよね、仙人掌。『修羅の門』の必殺技の菩薩掌みたいで。
「覇王樹」については、WEBで調べる限りその由来は不明だったのですが、とりあえず覇王樹という言葉はサボテンを指す言葉というよりかは、サボテンを含む多肉植物を指す言葉のようなイメージがあるようです。たとえばアロエとか。実際に、たまに、アロエやアガベを指して「サボテン」と呼ばれる方もまだまだいらっしゃいますしね。
ちなみにちなみに、覇王樹は中国語の漢字だと「霸王樹(覇が雨冠になっている)」っぽいのですが、この言葉をGoogleで画像検索すると
↓https://www.google.com/search?q=%E9%9C%B8%E7%8E%8B%E6%A8%B9&hl=ja&tbm=isch
パキポディウムのラメリー(Pachypodium lamerei)が出てくるようです。いろいろ調べるとラメリー正確には「非洲霸王樹」なのかな(非洲とはアフリカのことらしい)?なかなか面白いですね。
・・・
さらにちなみに、そもそも「サボテン」はなんで「サボテン」というのか?ということですが、WEBでざっと調べると、かつて南蛮人がサボテンを石鹸代わりに食器を洗っていたのをみて、石鹸を表す言葉である「シャボン」からきたというのをよく見る気がします(伊豆にあるやつは「シャボテン」公園ですね)。
過去の記事の参考:
ただ、いろいろ調べていくとどうやら違う意見もある感じでした。
その違う意見の中でも、私が個人的になかなかそれっぽいなと思うのは、
サボテンの名が初めて使われたのは《中山伝信録物産考》(1769)で,それ以前は〈サッホウサチラ〉〈さんほてい(三布袋)〉〈さんぽて〉などと呼ばれた。
引用: https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1818
(中略)
メキシコの果物サポテの愛称はサポチラzapotillaで,初期の和名サッホウサチラに似るところからサポテとウチワサボテンの果実を取り違えたとも考えられる。
つまり
メキシコの「サポチラ」をウチワサボテンの果実と間違える
↓
サッホウサチラ(さんほてい、さんぽて)
↓
サボテン
ということですね。ちなみにサチポラというのはどういうやつかというとこちら。
さらに他の意見では
サボテンとはこのものの漢名仙人掌が書き誤まられて仙八掌となり、この誤字の発音がわが国に入ってサボテンとなったものであろう。現に台湾名には仙巴掌 Sian-pa-chiun があり、これは明らかにさらにこの仙八掌の書き改めである。したがってサボテンよりもシャボテンの方が原音に近い。
引用: https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjapbot/42/8/42_42_8_5551/_pdf/-char/en
つまり、
中国の仙人の手の形からきた「仙人掌」
↓
書き誤って「仙八掌」
↓
読み方が「せんばて(のひら)」
↓
サボテン
ということです。なんとなくこれもそれっぽい。
うーん、面白いですねえ。
ということで本題の「覇王樹茶屋(サボテン茶屋)」についてです。
サボテン茶屋は超端的にいいますと、旧東海道にあった大きなサボテンが目印の江戸時代の有名なお茶屋さんのことです。
そのお茶屋さんはいまはもうないんですけども、その跡地にはパン屋さん(エスプランさん)があって、そのすぐ横に、サボテン茶屋の石碑があるんですね。
そんで、その実際の石碑というのがこれ。これを見学に行ってきたわけです。
旧東海道鶴見 覇王樹茶屋跡
みぎひだりつのを 出して世の中を 見たるもおかし さぼてんの茶屋
とあります。
石碑の上部にはウチワサボテンが掘られています。
右側側面には「旧鶴見停車場入口」
左側側面には 十代目 塩田善作建立 とあります。
サボテン茶屋については、「アゴラ : 鶴見大学図書館報 (128)」、「横浜市史稿 風俗編, 著者
横浜市 編纂, 出版者 臨川書店, 出版年月日 1985.12」、「冊子 つるみ このまち このひと」、あとエスプラン様のWEBページになどに詳細が書かれています。
国会図書館とか、近くの図書館で調べたところ、それらをまとめると↓のようなかんじ。
- 旧東海道の鶴見川にほど近い鶴見という土地に(=川崎宿と神奈川宿の間にある「間の宿」)に大きなサボテンがある茶屋があった。
- 創業は1679年(延宝7年)、徳川5代目将軍綱吉公の頃。
- サボテンはウチワサボテンで、高さは4mクラスであった(高さ一丈三尺、根回り六尺)。
- サボテンも切り売りしていたようで、長さ二寸、幅一寸で、銭一六文だったとのこと(黒川荘三手控「千草の花」より)。
- サボテンの切り売りと力餅の販売で、非常に繁盛していた(鶴見川を渡る商人達の憩いの場として盛え、坂本龍馬や、宮本武蔵なども立ち寄ったらしい)。
- 五雲亭貞秀の『御開港横浜之全図』にも掲載されている。
- 茶屋を始めたのは、塩田 作兵衛 様(塩田家初代)。
- 時代の流れとともにお店の形や店名を変えて、1952年に今のエスプランという店名になった。
- 平成9年11月、エスプラン前に石碑を建てたのは、塩田家10代目の 塩田 善作 様。なお、その石碑が建つ前は、先代の 塩田 金作 様が立てた「さぼてん茶屋」と書かれた木の柱があったらしいのですが、それが老朽化したので石碑にされたとのこと。
- 石碑の歌は、サボテン茶屋の前にあった苦楽丸という金看板を掲げた鶴居堂という有名な薬屋さんの主人で、明治時代に鶴見神社の宮司をしておられた黒川荘三 (鶴園) さんという方が、詠まれたもの(「つるみ このまち このひと」より)。
- 石碑の文字は、のちの世の人がこの碑を建てた時代がわかるよ うにと、鶴見生まれの書家の田村空谷先生が、美しい前衛文字で書いてくれたとのこと(「つるみ このまち このひと」より)。
- 現在のエスプラン店主は、12代目(エスプランとしては3代目)の 塩田 悠樹 様。なお、11代目は上記アゴラに記事を書かれた 塩田 一善 様)。
ちなみに↑ででてきた「御開港横浜之全図」とはこんなやつで
確かに左下に「サボテン茶屋」というのが見えます。茶屋のすぐ横に伸びている通りが旧東海道で、すぐ上が鶴見川ですね。
なかなか興味深いですね!4mのウチワサボテンは現代でもなかなか見ることはできないのではないでしょうか。
ちなみに、当時のサボテンは最終的にどうなったかといいますと、私が調べる限りは2通りの結末があって、その一つが↓の、枯死した説。
慶應の年頃から霜除け、雪掩ひの不完全であった爲か、將た氣候の變調に侵された事などあってか、手入れ方法に困難を生じて以来年々衰弱の狀態となって、明治初年頃惜しくも枯死して終った。
横浜市史稿 風俗編, 著者 横浜市 編纂, 出版者 臨川書店, 出版年月日 1985.12
もう一つが↓の焼失した説です。
この茶屋の看板であったサボテンは明治四三年三月二八日汽車の煤煙から火の粉が出て鶴見駅近くの横山兼吉方の物置の草屋根に燃えうつり、隣りの天王院を焼き、 旧街道筋二〇〇余軒を灰燼に帰した大火の折、遂に焼失してしまったという。
ヨコハマ散歩 増補改訂3版, 著者 森篤男, 編著 出版者 横浜市観光協会, 出版年月日 1973より
どちらが正しいかはわかりませんが、エスプラン様のWEBページに、明治の大火でとあるので、後者が正解でいいかとは思います。
・・・
ということで、もちろんエスプランさんではパンを買いました!
本当は店主様とサボテンのお話とか伺えればよかったのですが、お店はとても繁盛されていてお忙しそうでしたので!
エスプラン様名物の珈琲あんぱんと生ずんだあんぱん。
覇王おいしい!!!!!
ということで、近くを通られた際は、ぜひともエスプランさんでサボテン茶屋跡の石碑を眺めて、美味しいパン買ってみてくださいね!
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